■ 2021 小さな旅 10 ■
10/28-29「おかえりモネ」の舞台となった登米と紅葉のパッチワークが眩しい鳴子峡、木の街 金山町を訪ねました!
●1日目スケジュール
〇10/28(木)
①長町 ⇒ 利府⇒ 松島北(高速道路¥770)⇒鹿島台⇒ 涌谷 ⇒ 登米明治村⇒長沼の風車⇒鳴子
潟沼⇒鳴子峡⇒鳴子温泉鳴子旅館(貸し切り)
★昼食:登米市内の今野食堂 蕎麦(北海道摩周湖産 品種:牡丹、二八そば)
みやぎの明治村「登米町」は宮城県北東部にあり、町の中央を東北の大河北上川が流れ、東に北上山地、西にはお米のササニシキ・ひとめぼれのふるさとである豊かな田園地帯が広がる静かな町。
仙台伊達藩の一門として、13代約300年にわたり、二万一千石の城下町であった。歴代の当主は北上川の川筋を変えるなど数多くの事業を興し、民生の安定に努め明治維新後は北上川を利用した舟運による米穀の集散地として繁栄した。廃藩置県により登米県・水沢県の県庁所在地になったが、その後宮城県に統合された。明治6年、寺池村・日野渡村・日根牛村を合わせて登米村が構成され、また明治22年町制施行によって登米町が発足。
町には、教育資料館(国重文:旧登米高等尋常小学校)や警察資料館(県重文:旧登米警察署庁舎)のハイカラな洋風建築物、廃藩置県当時に置かれた水沢県庁記念館(旧水沢県庁庁舎)や重厚な蔵造りの商家など、明治を偲ばせる建物が現存している。また、少し横道に入ると藩政時代の武家屋敷や史跡が随所に残っており当時の面影を今に伝えている。それらの町並みから登米町は「みやぎの明治村」と呼ばれている。
⇩涌谷城⇩
⇩とよま明治村⇩
『続日本紀』に「宝亀5年陸奥国遠山村」の記述があり、国語学者大槻文彦氏は著書『復軒雑纂』(1902年)の中で「続日本紀の宝亀5(744)年10月の条に見えた、蝦夷の巣窟陸奥国遠山村とあるが、後の登米郡の地であろう。遠山村はもとより蝦夷語の当て字であろうが、遠山は「トヨマ」の同音である。」と述べており、このことから「遠山」が「トヨマ」の語源であるとされている。
また、「トヨマ」を「トメ」と呼ぶようになったのは、『復権雑纂』に「今”トメ”など言うは、維新後に他国より来し県吏など百姓読みせしに起れり、往時は、さる称呼せし者一人もなかりき。」とある。明治の初めこの町が登米県・水沢県の県庁の所在地となって地名の呼び方もわからない県庁職員が多数往来したので”トメ”と呼ぶようになったのであろうと言われている。
町内の施設名称は、市町村合併後も町内にある小中学校の読み方は変わらずトヨマ小学校・トヨマ中学校と読み、国・県の施設に関しては、宮城県立トメ高等学校・仙台地裁トメ支部・仙台法務局トメ支局・宮城県トメ警察署と使い分けされている。
⇩昼食は登米の「今野食堂」で手打そば(粉は摩周湖産牡丹)⇩
⇩長沼の高台にあるオランダ風車⇩
⇩今宵の宿 鳴子温泉の鳴子旅館へ宿泊(貸し切り状態でした)⇩
旅館のお風呂は、敷地内にある独自の源泉より常時温泉を掛け流しです。泉質は古くから「美人の湯」として愛されてきたナトリウム-炭酸水素塩泉(旧泉質名:重曹泉)。皮膚の表面を軟化させる作用があり、皮膚病や火傷、切り傷によいと言われております。また古い角質や汚れを落とす洗浄効果が高く、湯上り後は肌がふっくらツルツルに。心身をやさしく包み込むような柔らかな湯でした。
●2日目スケジュール
〇10/29(金)
①鳴子温泉⇒ 鳴子潟沼⇒鳴子峡⇒金山町散策⇒シェーネスハイム金山 ⇒ さばねや
ま(地蔵堂)⇒よってけポポラ⇒川崎
★昼食:さばね山の手打ちそば(そば会席)
⇩鳴子温泉の潟沼⇩
宮城県大崎市の江合川沿いにある鳴子温泉郷は、東北有数の紅葉スポットとして有名な鳴子峡の東側に位置する温泉街で、鳴子温泉・東鳴子温泉・川渡温泉・中山平温泉・鬼首温泉の5つの温泉街を合わせた温泉を鳴子温泉郷と呼び日本百名湯の一つにも選出されています。
その鳴子温泉の南側にある自然散策スポットである潟沼で、世界でもトップクラスとなるph2.4の強酸性となるカルデラ湖です。湖水は天候などの条件によってエメラルドやブルーなどに変化して、自然の色とは思えない程に幻想的な美しさを楽しめます。
この沼が形成された理由は定かではありませんが、続日本後紀によれば、「玉造塞温泉石神が雷響振動し、昼夜止まない。温泉が河を流れ、その色は漿のようである。加えてもって、山が焼け谷が塞がり、石が崩れ木を折り、更に新しい沼を作った。沸く声は雷のようである」と記されており、この新沼が温泉の川の流れを堰き止めて形成した堰止湖である潟沼なのではないかという説も存在しています。
⇩鳴子峡⇩
⇩山形県金山町⇩
江戸時代に羽州街道の宿場町として栄えた金山町。今も、古い建物や蔵が残り、当時の面影を感じることができます。街を散策しているとよく見られるのが、白壁にこげ茶色や黒色の切妻屋根、そして金山杉の下見板張りが特徴の「金山住宅」です。
金山町では、昭和58(1983)年から、100年をかけて自然(風景)と調和した美しい街並みをつくり、あわせて林業等の地場産業の振興や人と自然の共生を図るという「街並み(景観)づくり100年運動」を推進しています。その実現に向けて昭和60(1985)年には「金山町街並み景観条例」を制定し、金山住宅の普及と保存をはじめとして住民・建築関係者・行政が連携して元郵便局を改修復元した「交流サロンぽすと」や、米蔵を文化活動の拠点へと改修した「蔵史館(くらしかん)」の整備など、住民生活と景観づくりが一体となった町づくりを進めています。こうした町をあげての取り組みにより形成された街並みは、平成22(2010)年には、国土交通省と「都市景観の日」実行委員会が主催する都市景観大賞において、「美しいまちなみ大賞」を受賞するなど、数々の表彰を受けています。
江戸時代から植林が行われ、国内最大級の杉の美林(びりん)が広がる山々。宿場町として栄え、現在でも当時の風情を残す街並み。山形県の北東部に位置する最上郡金山町では、長い年月をかけて育まれた美しく懐かしい景観が訪れた人を迎えてくれました。
⇩シェーネスハイム金山⇩
まるでヨーロッパの高原のような雰囲気をまとう、山形県金山町にあるホテル「シェーネスハイム金山」。1998年に設立したこのホテルは、JR東日本と金山町が出資し、滞在型ホテルとしてオープンしました。それから23年が経ち、豊かな自然のなかでアクティビティーを楽しむための拠点として、また町の人にとっては町の外に向けた窓口として機能しています。