■ 2023 小さな旅 14 ■
12/5-6:宮沢賢治の面影を忍びながらいつもと違うアプローチで花巻と盛岡の地を訪れてみました。そして同じ明治時代に官営模範工場で木骨煉瓦造の富岡製糸場(世界遺産)を訪れました。
12/5:花巻 茶寮「かだん」(宮沢賢治ゆかりの花壇)
蘇った空間に 新しい世界を
ここには宮沢賢治 が晩年に設計した花壇があります。
宮沢賢治最後の造園であり、当時の素材のまま現存する唯一の作品であると言われています。
長い間、非公開とされておりました「宮沢賢治の花壇」を2016年9月より一般公開しております。私たち家族だけで約1年間かけて手入れをし公開に至りました。
当時、賢治さんはどんなお花を植えていたのかな・・・、そんな想像を巡らせながらの花壇の手入れは私共の楽しみでもあります。
春には一面にチューリップが咲きほこり、夏から秋へと様々な花が咲き乱れます。冬は雪景色となってしまいますが、季節ごとに移ろいゆく様が楽しみです。
⇩花巻市役所の近くの「ひゃっこ坂」を下ったところにあります⇩
12/5: 盛岡 光原社(注文の多い料理店)
大正13年(1924)宮沢賢治の生前唯一の童話集[注文の多い料理店]を発刊、社名も賢治の手によって光原社と名づけられました。これは、賢治と創業者が盛岡高等農林学校で先輩、後輩の縁によるものです。当時、花巻農学校の教師をしていた賢治を訪ねた創業者は、賢治から膨大な童話の原稿を預かりこれが注文の多い料理店の発端になりました。童話名や光原社の社名をめぐって二人の間で楽しいやりとりが交わされたようですが、結局この名前に落ち着きました。二人の夢を乗せたこの童話集は残念ながらほとんど売れず注文の少ない童話集となりました。創業者は生涯を閉じるまでこの注文の多い料理店と宮沢賢治を語るとき充分な満足感に浸っておりました。いうまでもなく賢治という天才と接し得たこと、特に一冊の本を通じて(いーはとーぶ)の夢を見たことによるものと思います。
いーはとーぶという言葉は今盛んに使われますが、理想郷としての岩手県を指すものとして解釈して、間違いはありませんが、賢治の心はこの苦しい現実の中にも岩手県民、特にも農民が心の中に理想郷を失ってはほしくなかったからです。
昭和8年、賢治とは早すぎる別れを告げましたが、あいついで鉄器の高橋萬治や民芸の柳宗悦、染色の芹沢銈介、版画の棟方志功などの知遇を得ることができました。いーはとーぶの夢を失わないように努力して参りたいと思います。
光原社は現在では手仕事の一品を集めた工芸品店となっていますが、かつては児童文学の金字塔として今も読み継がれる宮沢賢治の『注文の多い料理店』を出版したことで知られる出版社でした。光原社の創業者・及川四郎が宮沢賢治と同じ盛岡高等農林学校の1年後輩という間柄であり、光原社という社名も賢治が名付けたという、宮沢賢治ゆかりの老舗です。
『注文の多い料理店』は、今ではとても有名な宮沢賢治の作品ですが当時はあまり注目を集めることはなく出版業は失敗に終わったそうです。
その後、岩手を代表する工芸品となっていた南部鉄器の製造販売をはじめ、藝運動の提唱者、柳宗悦との交流を深める中で、現在のような形態になっていきました。
陶器や漆器、南部鉄器など岩手を中心に全国から集めた暮らしの逸品は必見です。また中庭には、光原社可否館というレトロな喫茶店もあり、ハンドドリップで一杯ずつ丁寧に入れられたコーヒーや、人気のくるみクッキーを堪能することができます。
12/6: 富岡製糸場<官営模範器械製糸場>(世界遺産)
江戸時代末期、鎖国政策を変えた日本は外国と貿易を始めます。その当時最大の輸出品は生糸でした。生糸の輸出が急増したことにより需要が高まった結果、質の悪い生糸が大量につくられる粗製濫造問題がおきました。諸外国から生糸の品質改善の要求、外国資本による製糸工場の建設の要望が出されました。
明治維新後、富国強兵を目指した政府は、外貨獲得のため、生糸の品質改善・生産向上を急ぎます。しかし当時の民間資本による工場建設は困難な状況であったため、洋式の繰糸器械を備えた官営の模範工場をつくることを決めました。
この模範工場の基本的な考え方は主に3つでした。1つ目は洋式の製糸技術を導入すること、2つ目は外国人を指導者とすること、3つ目は全国から工女を募集し、伝習を終えた工女は出身地へ戻り、器械製糸の指導者とすることでした。
こうした考え方をもとに雇い入れられたフランス人、ポール・ブリュナの指導のもと、西洋の技術を取り入れた官営模範器械製糸場(富岡製糸場)が設立されたのです。
富岡製糸場は、国が建てた大規模な器械製糸工場で、長さが約140mある繰糸所には300釜の繰糸器が並び当時の製糸工場としては世界最大規模でした。
富岡製糸場の建設はフランス人指導者ポール・ブリュナの計画書をもとに明治4年(1871年)から始まり、翌年の明治5年(1872年)7月に主な建造物が完成、10月4日には操業が開始されました。繭から生糸を取る繰糸所では、全国から集まった伝習工女たちが働き、本格的な器械製糸が始まりました。
外国人指導者が去った明治9年以降は日本人だけで操業されました。官営期を通しての経営は必ずしも黒字ばかりではありませんでしたが、高品質に重点を置いた生糸は海外で高く評価されました。
器械製糸の普及と技術者育成という当初の目的が果たされた頃、官営工場の払い下げの主旨により、明治26年(1893年)に三井家に払い下げされました。その後、明治35年(1902年)には原合名会社に譲渡され、御法川式多条繰糸機による高品質生糸の大量生産や、蚕種の統一などで注目されました。昭和13年(1938年)には株式会社富岡製糸所として独立しましたが、昭和14年(1939年)には日本最大の製糸会社であった片倉製糸紡績株式会社(現・片倉工業株式会社)に合併されました。第二次世界大戦後は自動繰糸機が導入され長く製糸工場として活躍しましたが、日本の製糸業の衰退とともに昭和62年(1987年)3月ついにその操業を停止しました。操業停止後も片倉工業株式会社によってほとんどの建物は大切に保管され、平成17年(2005年)9月に建造物の一切が富岡市に寄贈され、その後は富岡市で保存管理を行っています。
平成17年7月には国の史跡に、平成18年(2006年)7月には主な建造物が重要文化財に、平成26年(2014年)6月には「世界遺産一覧表」に記載されました。さらに、同年12月には繰糸所、西置繭所、東置繭所の3棟が「国宝」となりました。