■ 2016 小さな旅 4 ■
2016.7.26-29(4日間)にかけて、
山陰山陽の旅を楽しんできました。
1.天橋立・鳥取砂丘(はわい温泉望湖楼)
2.足立美術館・出雲大社・津和野(萩温泉千春楽)
3.萩・松蔭神社・松下村塾・秋吉台・安芸の宮
島・厳島神社(プリンスH広島)
4.平和記念公園・原爆ドーム・倉敷美観地区・大
原美術館
1日目:天橋立・鳥取砂丘(はわい温泉)
仙台空港(8:00発)==伊丹空港==○【日本三景】天橋立(約50分)【府中==(ケーブルカー乗車)==○傘松公園(天に舞う架け橋)==(ケーブルカー乗車)==府中】==○鳥取砂丘(日本一大きい砂丘/約50分)==△白兎海岸(因幡の白兎の舞台)==はわい温泉 望湖楼510(18:30着)(泊)
■天橋立
京都府北部、日本海の宮津湾にある『天橋立』は、陸奥の『松島』・安芸の『宮島』とともに、日本三景とされている特別名勝のひとつです。 幅は約20~170m・全長約3.6kmの砂嘴(さし)でできた砂浜で、大小約8000本もの松が茂っている珍しい地形で、その形が、天に架かる橋のように見えることから『天橋立』の名が付きました。その何千年もの歳月をかけて自然がつくりだした神秘の造形を見ようと、たくさんの方が訪れます。天橋立を楽しむには展望所からの眺めはもちろん、天橋立の中を歩いたり、自転車や船に乗ったり、海水浴場で泳いだりと自然を感じていただける楽しみ方も人気です。(天橋立を歩いて渡ると片道約50分、自転車約20分です)
天橋立は、日本百選に多数選ばれています。(日本の名松百選、日本の名水百選、日本の道百選、日本の白砂青松百選、日本の渚百選、美しい日本の歴史的風土百選、日本の歴史公園百選、日本の地質百選)
■鳥取砂丘
鳥取に来たら一度は立ち寄りたい鳥取砂丘。山陰海岸ジオパークの鳥取砂丘エリアに位置し、南北2.4km、東西16kmに広がる日本最大級の砂丘です。まずは砂丘を歩いて魅力を堪能してみてください。日本海の風と砂丘の砂が作り出す風紋は美しく見る人の心を魅了します。砂丘の特徴的な地形にすり鉢に形が似ていることからスリバチと呼ばれる大きく窪んだ場所があり特に大きな場所は40mもの高さがあります。
2日目:足立美術館・出雲大社・津和野(萩温泉)
ホテル(7:45発)==◎足立美術館(13年連続日本庭園ランキング1位・横山大観コレクション数120点は日本一/約60分)==○出雲大社(重さ5tのしめ縄は日本一の大きさ/約90分)==○ゆうひパーク浜田(約15分)==○津和野(殿町通り散策/約45分)==萩温泉郷 千春楽471(19:10着)(泊)
■足立美術館
足立美術館の庭園は、米国の日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」の日本庭園ランキングで、かの有名な桂離宮を抑え、13年連続第1位に輝き名実ともに世界一の日本庭園として名を轟かせています。
「枯山水庭」、「白砂青松庭」、「苔庭」、「池庭」と足を進めるたび広がる閑雅な風情は、館内の日本画の作品とあいまって訪れる方の心を静かに癒します。特に「白砂青松庭」は横山大観の名作「白沙青松」をイメージした庭で、白砂と松のコントラストが印象的。
床の間の壁をくりぬき、あたかも一枚の掛け軸のような庭園絵画が鑑賞できる「生の掛軸」もあり、こちらも足立美術館の見どころのひとつとして挙げられ、人気を博しています。
年に4回の展示替えで、季節ごとに庭と作品との調和を図っており、飽きさせない工夫が随所に施された足立美術館。安らぎという贅沢な時間を心ゆくまで楽しみました。
なぜ足立美術館にこれほど多くの横山大観の作品があるのでしょうか?」「なぜこのような田舎にこれほど見事な庭園が」と半信半疑のような顔をされることが多いようです。 「名園と横山大観コレクション」すなわち日本庭園と日本画の調和は、当館創設以来の基本方針であります。それは、日本人なら誰でも分かる日本庭園を通して、四季の美に触れていただき、その感動をもって横山大観という、日本人なら誰でも知っている画家の作品に接することで、日本画の魅力を理解していただきたい。そして、まず大観を知ることによってその他の画家や作品に興味を持っていただき、ひいては日本画の美、すなわち「美の感動」に接していただきたいという、創設者 足立全康(あだちぜんこう)の強く深い願いがあってのことなのです。
↓四季折々の足立美術館庭園の様子を実感してみてください!ライブカメラ↓
■出雲大社
出雲の国は神の国として知られています。一般に旧暦の10月は神無月と呼ばれますが、それは日本中の神様がここ、出雲の国に集まってくるためで、出雲の国では逆に神在月と呼んでいます。そして、出雲の神社の中心となっているのが出雲大社です。
御祭神は大国主大神で、あらゆる縁や運命を司る神様です。ここで全国から集まった神々が人々の縁組について相談するという言い伝えから、縁結びの神社として広まりました。
かつて大国主大神が天照大神に国を譲り、その時に造営されたのが出雲大社と言われています。歴史は古く、日本最古の歴史書「古事記」にも記されています。時代を超えて長く親しまれている神社でもあります。出雲大社造営起源の記述では、その壮大なる神殿の様子は、「太く長い柱を地下の岩盤に届くほど深く突き固め、大きく厚い板を用い、屋根に掲げられた千木は天の雲を貫くほど」であったと言います。
平成12年春には、古代神殿の御柱「宇豆柱」が境内より発見されています。この御柱は、1248年(宝治2年 )造営の本殿である可能性が高いとされているそうですが、創建当時の様子の記述を思い起こさせる、身震いがするような巨大な柱です。
■津和野
「山陰の小京都」といわれる津和野は島根県と山口県の県境に位置する町で、鎌倉時代から約700年続く城下町。掘割を流れる清水には色とりどりの鯉が泳ぎ、白い土塀が続く光景はこの町ならではの趣を色濃く残しています。また、明治の文豪・森鴎外の生家があることや、キリシタン殉教の里などでも知られており、歴史と文化が感じられ、人々を魅了する町です。
3日目:萩・松蔭神社・松下村塾・秋吉台・安芸の宮島・厳島神社(広島プリンスホテル)
ホテル(7:50発)==○萩城下町・松陰神社・松下村塾(吉田松陰の塾舎松下村塾が世界遺産登録!/約50分)==☆萩焼窯元(約30分)==○秋吉台(日本一の規模を誇るカルスト台地/約20分)==◎秋芳洞(広さ日本一の大鍾乳洞/約120分)[昼食]==宮島口==○【日本三景】安芸の宮島(しゃもじの生産量日本一・世界一の大杓子)==◎【世界遺産】厳島神社(日本屈指の高さを誇る木造鳥居)(合計約60分)==宮島口==広島プリンスホテル604(18:30着)(泊)
■萩・松蔭神社・松下村塾
幕末期に吉田松陰が主宰した私塾。
天保13年(1842)に松陰の叔父である玉木文之進が自宅で私塾を開いたのが始まりで、後に松陰の外伯父にあたる久保五郎左衛門が継ぎ、安政4年(1857)、28歳の松陰がこれを継ぎ、主宰することになりました。松陰は身分や階級にとらわれず塾生として受け入れ、わずか1年余りの間でしたが、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋、山田顕義、品川弥二郎など、明治維新の原動力となり、明治新政府に活躍した多くの逸材を育てました。木造瓦葺き平屋建ての50㎡ほどの小舎で、当初からあった8畳の一室と、後に吉田松陰が増築した4畳半一室、3畳二室、土間一坪、中二階付きの部分から成っています。講義室だった8畳の部屋には松陰の石膏像と肖像画、机が置いてあります。
当時、この地域が松本村と呼ばれていたことから「松下村塾」という名がつけられました。
■秋吉台・秋芳洞
秋吉台ははるか昔、遠い海でサンゴ礁として誕生しました。それから約3億5千万年、ドリーネや鍾乳洞が発達した石灰岩の台地、カルスト台地となりました。石灰岩の中にはサンゴ、ウミユリなどの地球と秋吉台の長い歴史を示す化石が見つかりました。秋吉台はかつては森林でした。中世、農業の発展にともなって日本各地で草原が誕生しました。秋吉台でも木は切られ一面の草原となりました。草は家畜の飼料や有機肥料などに、また、ススキは屋根の材料として大切にされ、良質の草原を維持するために山焼きが行われました。秋吉台の草原は人の営みによって生まれた自然なのです。
四季おりおりに訪ね、自分の足で歩き、風を空を岩を生き物の探検 いいね!
秋吉台の地下100m、その南麓に開口する日本屈指の大鍾乳洞「秋芳洞(あきよしどう)」は大正15年昭和天皇が皇太子の御時、本洞を御探勝になり、この名前を賜ったものです。ひんやりと肌をさす冷気漂う杉木立を通り抜けると、秋芳洞の入口です。洞内からの水は三段の滝となり、飛沫を舞い上げながらコバルトブルーの川面へと流れ落ちています。洞内の観光コースは約1km(総延長8.9km)、温度は四季を通じて17℃で一定し、夏涼しく冬は温かく、快適に探勝できます。
時間が凍結したような不思議な自然の造形の数々は変化に富み、私たちの心に大きな感動を呼び起こさせてくれます。
■安芸の宮島・厳島神社
厳島神社は1400年の歴史があり、ユネスコの世界文化遺産に登録されていて、日本三景のひとつ「安芸の宮島」に浮かぶ古社。平清盛が一族の繁栄を祈って建てたもので、島全体を神として信仰したことによって栄えたといわれています。海上に建ち並ぶ美しい建造物群は、平安時代の住宅建築様式・寝殿造りを取り入れたもので、背後の自然と一体となって素晴らしい景観を作っています。
たびたび火災や台風、高潮で被害を受けましたが、そのたびに修復され、ところどころ色が少し違うのは建てられた時代などが違うからと言われています。回廊の床板は8枚敷いてあり、板と板の間が少しずつ空いていて高潮や台風から守るための工夫がされています。ここでも「8」という数字が出ましたが、「108」や「88」とたくさんの8の数が使われていて、回廊は108本の柱、間隔が8尺、灯篭の数が108個など多くの所で末広がりの縁起がいいとされている数字が使われています。
本当のところは分からないですが、パワースポットの一部だからと納得してしまいそうです。 日本を代表する気品に満ちた世界遺産は本社を中心に、国宝の平舞台、高舞台、能舞台、客神社など20数棟が朱塗りの回廊で結ばれていて、見所がたくさんあるので、堪能できます。
朱色に統一された廊下を歩いていると、時代劇に出演しているような気持ちになれるかも。荘厳で、とても綺麗に整備されています。進路の最後に大鳥居が出現します。
厳島神社のシンボル、高さ約16m、支柱の周囲約10mの朱塗りの大鳥居は、潮が引けば、大鳥居まで歩いて行くことができます。潮の満ち引きによって、海に浮かぶように見え、変化するさまも圧巻です。この鳥居は自然の重みで建っていて、構造の工夫だけで自力で立っているそうです。
4日目:原爆ドーム・倉敷美観地区・大原美術館
ホテル(8:00発)==○広島平和記念公園・【世界遺産】原爆ドーム(約50分)==○倉敷美観地区(白壁の美しい絵になる町並みを散策約90分)==伊丹空港==仙台空港(21:10着)
■原爆ドーム・平和記念公園
平成8年(1996年)12月、ユネスコ第20回世界遺産委員会メリダ会議で、核兵器の惨禍を伝える建築物として世界文化遺産に登録されました。
指定範囲:原爆ドームの所在する地域/約0.39ヘクタール
原爆ドームは、大正4年(1915年)に広島県内の物産品の展示・販売をする施設として建てられ、広島県美術展覧会や博覧会も催されていました。設立当初は 「広島県物産陳列館」という名称でしたが、その後「広島県立商品陳列所」、昭和8年(1933年)には「広島県産業奨励館」に改称されています。設計者はチェコの建築家ヤン・レツル氏で、構造は一部鉄骨を使用した煉瓦造、石材とモルタルで外装が施されていました。全体は3階建で、正面中央部分に5 階建の階段室、その上に銅板の楕円形ドーム(長軸約11メートル、短軸約8メートル、高さ4メートル)が載せられていました。その頃の広島は、都心部のほとんどは木造2階建ての建築であり、、こうした大胆なヨーロッパ風の建物は非常に珍しく、川面に映えるモダンな美しさ とあいまって広島名所の一つに数えられていました。
昭和20年(1945年)8月6日午前8時15分。人類史上最初の原子爆弾が炸裂したのは、広島県産業奨励館から南東約160メートル、高度約 600メートルのところです。爆風の圧力は1平方メートルあたり35トン、風速は440メートルという凄まじいもので、建物は爆風と熱線を浴びて大破し、 天井から火を吹いて全焼。爆風がほとんど垂直に働いたため、本館の中心部は奇跡的に倒壊を免れたものの、館内にいた人はすべて即死しています。戦後、旧産業奨励館の残骸は、頂上の円蓋、鉄骨の形から、いつしか市民から原爆ドームと呼ばれるようになりました。
昭和28年(1953年)に広島県から広島市に譲渡され、昭和41年(1966年)7月には広島市議会が原爆ドームの保存を決議を行い、その後、風化が進み、国内外での善意の募金により3回の大規模な保存工事が行われました。また、世界遺産リストへの登録を求めて、市や市議会、広範な市民運動の結果、平成7年(1995年)6月に国の史跡に指定され、文化庁からユネスコに登録申請。平成8年(1996年)12月、世界文化遺産へ登録されました。
現在では、被爆当時の惨状を残す姿がノーモア・ヒロシマの象徴として、時代を越えて核兵器の廃絶と恒久平和の大切さを世界へ訴えるシンボルになっています。
■倉敷美観地区・大原美術館
倉敷は倉敷川を中心とする一帯は早くから干拓による田地の開発が進められていました。その後、慶長5年(1600年)に備中国奉行領となり、倉敷は松山藩の玄関港として上方への物資の輸送中継地となります。やがて寛永19年(1642年)に代官所が置かれ、天領となりました。以後、幕府の保護や周辺の豊かな産物を背景に、物資の集積地として成長し、倉敷美観地区周辺一帯はさらに活気を帯びて行きました。当時の倉敷川は潮の干満を利用して多くの船が航行しました。倉敷は物資輸送の集積地として、川沿いには、塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とする町並みが形成されていきます。本町から東町へと続く通りは、かつて倉敷の中心部と早島を結ぶ街道筋で、倉敷川沿いより先に町となりました。かつては箪笥屋、桶屋など職人達が軒を連ねていたといい、現在も格子戸の宿、杉玉が軒に下げられた造り酒屋、阿知神社へと続く参道等々、昔のままのような風景に出会うことができます。
大原美術館は、倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家大原孫三郎が、前年死去した画家児島虎次郎を記念して昭和5年に設立した、日本最初の西洋美術中心の私立美術館です。
日本美術のコレクターでもあった孫三郎は、親しい友人虎次郎の才能と、美術に対する真摯な姿勢を高く評価し、三度にわたる渡欧をうながします。虎次郎は、そこで制作に励むかたわら、孫三郎の同意のもと、日本人としての感覚を総動員してヨーロッパの美術作品を選び取るという作業に熱中します。 明治の気骨を持つ虎次郎の選択は、東洋の感覚と西洋美術の精華との真剣勝負でした。彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。同時に進めた中国、エジプト美術の収集にも、東西の狭間で悩みつつ文化の源流に迫ろうとした虎次郎の心情が伺い知れます。大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術、日本の近代から現代の美術、民芸運動にかかわった作家たちの仕事等にコレクションを広げ、日本人の心情に裏打ちされた独特の個性を発揮するユニークな民間総合美術館として世界に知られるようになりました。