■ 2019 小さな旅 7 ■
8/4-5 秋田ドライブこまち旅
急遽、秋田竿灯まつりを見たくなり、前に住んでいた土地勘を頼りに、計画も立てず、宿と東日本高速道路2日間の北東北乗り放題プラン(¥5500)を予約していざ、出かけた。日差しが強く35度を超える最高のお天気にも恵まれ、走行距離780㎞(2日間)を走り切りました。愛車を自慢するわけではないが、ホンダNBOXは軽とは言え、4WD・ターボで高速走行が安定し、燃費もよく、普通車よりも安心して走れ疲れもありませんでした。ごきげんな夏のドライブのこまち旅でした。
〇8/4
仙台 8:30 出発 泉IC ==東北道・秋田道== 横手11:00
横手城・増田町の内蔵屋敷(JR東日本CMで吉永小百合さん撮影場所)・佐藤養助漆蔵資料館を見学し稲庭うどん・氷水をいただきました ⇒ 十文字IC==秋田中央IC15:30 ⇒ 秋田駅前ホテル「コンフォート秋田」へ到着し、休憩後、竿灯まつりへ出陣⇒竿灯まつりは竿灯大通りで19:00開宴し21:30頃に終了。(日中も競技会が9:00-15:00開催しております。
- ★8/4:走行距離290KM
秋田エリアドライブマップ
8/4:「内蔵のある町」増田町の蔵通り(中七日町)を歩く!
日本有数の豪雪地帯である秋田県横手市。その南東部に位置する増田は、成瀬川と皆瀬川が合流する地点に立地し、江戸時代以前より人と物資の往来でにぎわった地域です。両沢目で生産された養蚕や葉タバコのほか、様々な物資の流通に伴って増田は県内有数の商業地となっていきました。
現在商店街となっている「中七日町通り」は、明治の中ごろまで「ホタル町」と呼ばれ、内蔵や裏庭など、家の奥にある施設に比べると質素な表構えの町並みであったといわれています。しかし、商業発展のゆえに、明治の中ごろからは細部まで特徴的な正面意匠をもった大型の町屋が立ち並ぶようになり、秋田県内の商業地の中でも大型で特徴的な景観を見せるようになりました。
8/4:佐藤養助 漆蔵資料館(稲庭うどんをいただきました)
建築年代 座敷蔵 大正10年 旧米蔵 大正後期
増田の大地主であった小泉五兵衛の旧宅です。小泉家は材木や味噌・醤油を商っていました。江戸時代より8代続き、戊辰戦争においては350両という増田一の御用金を納めています。現在は稲庭うどん店に併設する資料館として利用されています。
8/4:「山吉肥料店」の内蔵(吉永小百合さんも絶賛!)
内蔵は、内部に床の間を配した座敷間を有する「座敷蔵」が最も多く、内蔵全体のおよそ65%を占めています。この内蔵が建てられた始まりは、物品を収納するための「文庫蔵」がほとんどだったと推定されますが、増田地区では明治に入ってから、座敷蔵の数が格段に増加し、文庫蔵を座敷蔵に改装した例も多くあります。こうした座敷蔵は、1階の入口を入ると手前に板の間、奥に座敷間を配する2室構成となり、2階は板の間の1部屋構成で、什器類を収納する文庫蔵としての機能を持っています。なお、呼称については居住している方々は、単に「クラ」或いは「ウチグラ」と呼んでおり、確定した名称はありません。ただし、寺社や醸造所等については、代々座敷蔵であっても「文庫蔵」として呼び伝えている例が見られます。
他の土蔵との違いは、そこに生活空間を持つという点であり、用途は多様ですが、多くはその家の当主或いは特定の家族の居室として利用され、冠婚葬祭に利用された例も見られます。こうしたこともあり、内蔵は日常的に不特定多数の人間が立ち入る空間ではなく、家族以外の立ち入りは制限されていました。このため、外から見えない内蔵は、長い間、家長及びその子弟限定の施設として、所在について隣家に知られない場合もあったという、極めて特殊な施設として現在に伝えられてきたのです。しかし逆に、このことが家族にとって特別な空間として、多くの内蔵が今日まで伝えられてくる要因となったのかもしれません。
★山吉 肥料店
建築年代 主屋 明治中期 座敷蔵 昭和前期
増田の商家建築の特徴である家屋配置を良く残し、南側に配置された「トオリ」が店舗より裏門まで一直線に伸びています。また、室内は明治大正期の建物に多用され、増田地域の特徴でもある一階の天井が高い造りで、北側となる座敷への採光が取れるように工夫された構造となっています。
8/4: 横手城【1554年 小野寺氏築城)
横手城は、その昔朝倉城といい、1550年頃、現在の秋田県南部に勢力を築いた小野寺氏によって造られたと伝わります。横手城は朝倉山を包むように横手川が流れ、背後は山、また山と奥羽山脈につづく独立した一箇の要害に建てられた平山城です。
城の普請は、石畳を用いないで土居削崖とし、土くずれを防ぐ土止めと、敵が這い登ることができないように韮(にら)を植えた築城だったので、別名「韮城」ともいいます。
1868年の戊辰戦争の際に横手城は落城し、二の丸跡には、昭和40年に三層の「天守閣様式の展望台(通称:横手城)」が建てられました。横手城跡は、現在横手公園として整備され、日々市内外の方々が訪れる憩いの場となっております。城址南東の一角に「宇都宮釣天井」で知られる「本多上野介正純公の墓碑」があり、北側には「平和観音像」、さらに本丸跡には焼け残った横手城の遺構を使って建立された「秋田神社」などがあり、名城の名残を引きつがせています。
ここからは、横手盆地が一望のもとに眺められます。特に秋田富士・鳥海山の姿はすばらしく、米を治めたものが天下を治めた、県南武将の血みどろの抗争の地の観を深くします。
8/4:秋田竿灯まつり
竿灯全体を稲穂に、連なる堤灯を米俵に見立て、五穀豊穣を祈願する秋田の夏の風物詩。約1万個もの堤灯が大通りを埋め尽くす様は壮観そのもので、差し手たちの豪快な技を満喫しました! 19時ころから約270本の竿灯は合図とともにいっせいに頭上に差しあがる。「どっこうしょう!どっこいしょう!」のかけ声と流麗なお囃子に合わせて、手のひら、肩、額,腰を使って力強い演技を披露してくれました。
★竿灯の種類 長さ 重量、高さ、 数
1.大若 12m、50㎏、64㎝、46個
2.中若 9m、30㎏、48㎝、46個
3.小若 7m、15㎏、48㎝、24個
4.幼若 5m、 5kg ,30㎝、 24個
★審査ポイント
1.型の美しさや安定した姿勢、2.直径6メートルの円内での演技、3.竿に両手をかけなかったか、4.竿灯の安定性、5.踏ん張りの力強さ
〇8/5
秋田 8:30 出発 男鹿半島(男鹿道の駅オガーレ⇒ゴジラ岩⇒入道崎⇒寒風山)を巡り、昨年、夏の甲子園で吉田雄星を擁して準優勝した金足農業(追立)を訪問した ⇒ 秋田北IC ==秋田道== 大曲IC ⇒大曲花火大会会場見学⇒角館⇒田沢湖⇒仙岩峠⇒盛岡IC ==東北道== 仙台南IC 19:30着
★走行距離490KM
8/5:千秋公園の蓮の花が満開でとにかく見事で、感動もんです!
8/5:男鹿半島一周(ゴジラ岩・入道崎・寒風山・金足農)
日本海に斧のような形で突き出した男鹿半島は、海と山の美しいロケーションが広がっていました。なまはげのふるさととしても知られ、島内にはなまはげスポットが点在し、ビュースポットドライブを楽しみました。今回は男鹿半島一周にチャレンジしました。
男鹿道の駅(オガーレ)⇒ゴジラ岩⇒なまはげ立像⇒男鹿水族館GAO⇒入道崎⇒寒風山⇒天王⇒金足農業高校(追立)
8/5:角館(内町の武家屋敷巡り)
今なお多くの武家屋敷が現存する角館は「みちのくの小京都」と称され、美しい街並みをドライブ巡りしました。
特に内町エリアはかつて武士の居住地だった場所で自生する木々など自然と調和した美しい街並みでした。
武家屋敷:石黒家(佐竹北家に仕え、財政を助ける勘定役についていた)、青柳家(佐竹北家に仕え納戸役に仕えていた)、松本家、岩橋家、河原田家、小田野家
8/5:田沢湖
周囲約20KM、深さ423.4Mと日本一の深さを誇る田沢湖。透明度も高く清らかな水をたたえる湖は、「美」に後利益があるという辰子姫伝説もある。たつこ像は高村光太郎の門下の彫刻家、舟越保武氏が辰子姫伝説をもとに製作したものです。先月のNHKのTV番組「小さな旅」で田沢湖が紹介されたが、その中で「たつこ茶屋」や農家民宿(サイクリングロード満喫する女性)を訪ねてみました。
★総括
走行距離780kmとハードな旅でしたが、車の安定性(4WD・ターボ)が抜群で疲れもなく快適な「こまちドライブ」でした。今後は、ちょっと空いた時間があれば、各地へ出没し、おいしい料理とお城を探索したいと考えております。これからも悠々田舎人の小さな旅シリーズを続けていきたいと思いますので、皆さんもドライブルートや列車の旅での参考にしてみてはいかがでしょうか。